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助けてほしいと言えない苦しい日々に身体の異変が次々と襲う

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助けてほしいと言えない苦しい日々に身体の異変が次々と襲う

苦しくても「助けてほしい」が言えない

前回の記事 >> 寂しいときも、その気持ちを抑え込んでいた私

私の診察券は果たして一体どこまで増え続けるのか?

幼い頃から何でも一人でやっていた私は
どんなに寂しくても、苦しくても

「助けてほしい」

と言えない性格になっていました。

そんな私になぜか、身体の異変が次々に襲いかかってきました。

誰にも相談できず身も心もボロボロに

中学、高校と新体操をしていました。
新体操って、とても可憐ですよね。

でもね、実際はめっちゃ過酷です。
スポーツに楽なんてものはないのかもしれないけれど、
ジャンプしたり、開脚したり、腰を反らせたり・・・
何よりも柔軟性と筋力が必要不可欠で、それに加えて表現力も求められる競技。

足はあざだらけで、手も突き指はしょっちゅう。
種具を投げてキャッチすることが、恐くなったりもしました。
リボン、フープ、ロープ、ボール、クラブどれがあたっても痛い!!
投げて前転してキャッチをすると、種具のタイミングがずれて頭や顔に当たることは
いつもで・・・。
中々、上達しませんでした (笑)

とにかく腰には負担がかかっていました。
しかも、整形外科に通って初めてわかったのですが、尾てい骨の骨が産まれつき1本多かったんです。
骨の周りを筋肉で鍛えても、今みたいになかなか骨自体の治療ってなくて、
その場しのぎの治療ばかりで、ずっと痛みと戦っていました。

高校卒業と同時にやめてしまった新体操でしたが、その後も日常で急な痛みを発症して、
整形外科に行っては痛み止めの注射を打たれるとか・・・。
それもどんどん効かなくて、針治療してもらえば神経に障って歩けなくなったりしたこともありました。
それ以来、針治療は恐くてしていません。

とにかく私の身体の状態がどんどん悪化していくのです。

毎朝、起きたら痛みの箇所が違っていて
結局、医者に通っても場所を変えて現れる痛みの原因を特定できませんでした。

頑張ることの裏にあった人に頼れない心理

その時は、頑張ることが当たり前すぎて自分では気づかないものだけど、
どんなに痛くても、私は頑張っていました。

「人に頼るくらいなら自分でやる方がマシ」

と思っていました。

新体操をしているときはキャプテンというポジションでした。
人前で話すのが苦手なのにみんなを取りまとめる?
そんな事が私は本当に嫌で
「こんな事を言ったら、どう思われる?」
と考えることが多かったし、
先生からはもっとみんなをまとめなさいと言われ、プレッシャーでした。

その時の私の心の中には

  • 強くなければならならい。
  • まとめなければならない。
  • みんなよりも上手くなければならない。
  • 後輩の相談にのらなければならない。
  • 素行をちゃんとしなければならない。
  • 勉強もしっかりやらなければならない。

キャプテンだから・・・こうしなければならない。
という固定概念を沢山持っていたのです。

父親の浮気 、母親の家出、そして私は腰痛

家では度重なる父の浮気で、母は少しずつ精神が不安定になってきていました。
私は自分の腰痛を心配するよりも、母が気がかりで

  • 自分の事は自分でする
  • 甘えない

という事をとことんやっていました。

部活動から帰るのは夜の10時くらいになるし、朝は朝練で6時には家を出る生活。
家に帰っても会話もなく、口を開けば愚痴を聞かされ
そういう生活が嫌な反面、母を心配する日々でした。

学校生活も楽しくない、家も楽しくない。
そんな日々がずっと続いていたのです。

高校2年の時、母が家出をしました。
朝、起きると私の机の上には預金通帳と置き手紙。

死ぬつもりで家を出た母は
一体どこへ行ってしまったのだろう?
本当に死ぬの?
この後私はどうすればいいの?

不安で、恐くて、どうしようもなかった。
全身から血の気が引いていった事を覚えています。

なのに、その日も何事もなかったかのように学校へ行く私。
自分を大事にはしていませんでした。

母は3日後に帰ってきて、何事もなかったかのように生活が始まりました。
私は何があったか、聞くことも出来ずにいました。

高校卒業後は母を安心させたい気持ちから就職しました。
銀行に勤めますが、就労時間とお給料の割合が合わず1年で辞めて次の所へ。

その後、服の販売をするのですがノルマ多すぎだし、
服代はかかるしで、1年で辞めました。
20歳の時から5年間耳鼻咽喉科で働くことになったのですが
一番楽しかったお仕事かもしれません。

この間も、いちばん辛かった腰痛は治らず・・・。
患者さんから風邪をもらったりして、この頃は薬をすぐ飲んでいました。

結婚しても人に頼れない、もちろん旦那ですらも

22歳の時、家を出たいという気持ちがずっとあった私は結婚します。

今、思うと何とも変な理由なんですが、今の生活を抜け出すことが、
私には幸せなんだという気持ちが強かったのかもしれません。

1人暮らしをするという選択肢が私の中に存在しなかったのも不思議です。
ずっと頼ることをしてこなった私が、やっと頼れる人ができるという、期待もあったかもしれませんね。

で・・・実際は

頑張らないこと、頼ること。
そんなにすぐにできるはずもありません。

仕事も、家事も、掃除も、妻としても
何もかも頑張るのです。

よい妻ですよ。本当・・・
自分でもそう思います。

旦那は朝早く出勤して、夜遅く帰宅。
それが日常でしたから
・お休みの日はどこかに出掛けたい・・
・片付けしてほしい・・
けど、それさえも気を使って言えないの繰り返し。

決定的だったのは、誕生日を忘れられること。
結婚したその年から「誕生日おめでとう」が聞けないんです。

いや・・ありえん。
私の中で、産まれた日を忘れられるなんてないと思っていたから、完全な固定概念の崩壊です。
世の中に誕生日を忘れる人がいることを初めて知ったのでした (笑)

この頃の病気はもはや、痛みとして出ては、すぐ消えるの繰り返し。
そう・・痛みに対してどんどん鈍感になってくるのですよね。

そして、25歳の時に最初の出産をしました。

出産ってものすごく体力を使います。
元々、腰痛持ちなので妊娠中もかなりの負担があり主治医の先生からは骨盤が狭いから無事に産めるか?
と不安を言われてましたが無事に出産しました。

産後の実家への里帰りも窮屈で1ケ月足らずで自宅に戻りました。
心から安心できる家・・・
私にとって実家はそんな場所ではなかったから。

2人目の出産は妊娠中からとにかくしんどくて、ずっと寝てばかり。
妊娠は病気ではないし、どちらかと言うと新しい命が育つことへの喜びを感じたい時。

なのに・・・

気分がどんどん滅入るし、上の子のお世話もしなきゃいけない。
上の子と遊んであげれないという罪悪感も同時に出てくるんですよね。

2人目って一度お腹の皮が伸びているから、すぐに大きくなって
8ケ月の頃には臨月くらいのお腹の大きさで、歩くのもやっと。

旦那の帰宅は相変わらず遅く、お風呂の世話も大きいお腹を抱えてやっていました。

「あ~~誰か手伝って」

その一言が言えない。

「頼る」ことに慣れていない私は自分の首をどんどん絞めていました。

この頃、実母への不満もありほとんど連絡をとることをしていませんでした。

結婚したことで、
自分が育ってきた環境がどれほど苦しかったのか?
それがわかるような義母の許容範囲の広さが、この頃はとても嬉しかったのです。

それって、普通ではないんだ~とか、
わがまま言ってもいいんだ〜という、
義母の発言に心は少しずつほぐれていたのです。

しかし、義母はほぼ全盲です。
孫を預けることはできませんでした。

どこまでも、私は「頼る」ことをしない環境に身を置くのでした。

そして出産後は育児ストレスと家事、主人の世話をすることに疲れ
気づけば軽いうつに陥っていました。

この間になった病気

参考に私がなった病気を書き出してみました。

・腰痛(ぎっくり腰含む)
・膝痛
・首痛
・中耳炎(滲出性、急性)
・神経性胃炎
・座骨神経痛
・肋間神経痛
・突発性難聴
・下腹部痛
・蓄膿症
・プチうつ
・卵巣嚢腫

内臓と言うよりも「痛み」として出てくる病気がほとんどです。
そして、これらの痛みはずっとは続かないのです。

いわゆる「不定愁訴」というやつですね。

続き >> 原因不明の身体の痛み、体調不良の原因は心が疲れた悲鳴かも?

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